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心の美人湯!(武蔵小山温泉美人ブログ)


世の中公平だと言いながらなんと不平等なのでしょう。生まれながらにして不平等。これが実相です。そして見た目も全然違います。美人、不美人、生まれながらに天に愛されて生まれてきたのかとおもえるほどの美貌の持ち主。天はあえて差別して人々を創造したのでしょうか。「天賦の才」生まれながらの与えられた才能、美貌、容姿。しかしそれだけが幸せの要因でしょうか。否そんなことはないでしょう。キレイだけど心が汚い。お金持ちの家に生まれたけど心が貧しい。ボンボンだけど良い奴・・・。貧乏になってもいい奴なのか・・・。「心こそ大切なれ」という言葉があります。どんな境遇にいようが、どんな環境に置かれようが、健康であろうが不健康であろうが、金持ちであろうが、貧乏であろうが、美人であろうが不美人であろうが、五体満足であろうが、五体不満足であろうが、心だけは自分だけのもの。

その心だけは平等であり、世界でただ一つの自由かつ自在に強く、広く、賢く、美しく変えることができる自分だけのものではないでしょうか。それは天に与えられたものというよりは、輪廻転生をくり返す中で自分だけが作り上げてきた命の実像。心がキレイならいいのです。心が楽しければいいのです。心が幸せならそれでいいのです。何故なら心こそ大切であり、心こそが永遠だからなのです。bひょっとしたら心が美しくなると美しいオーラが全身を包んでいき、不思議と内面からにじみ出る心美人(こころびじん)になるのかもしれませんね。天然温泉がそんな心の美しさを創りだす一助になれば最高ですね。

武蔵小山温泉 清水湯若旦那談。

 

 

武蔵小山モン(武蔵小山温泉喧嘩上等ブログ)


東京・武蔵小山。都心に近いにもかかわらずどこか田舎町風情がいつまでもぬけきらない街。でもそこに住む人々はどこか優しげで人情味がある街。夏は祭りで熱く、冬は温泉が人々の心とカラダを温めている。品川区の東の端っこにある武蔵小山は町人のまちでもある。決して裕福な街ではなかった。昔からガラが悪くても有名だつた武蔵小山。強さと優しさ、そして何処にも染まらない武蔵小山モン気質。それは戦前から続く伝統だった。とくに後地周辺は町内会の結束も強く政治的にも中立是々非々、軸がぶれずに靡かない。

昨今、お金さえ持っていれば偉いとか、お金さえ持っていれば有名人の一員だとかで勘違いしている輩もいるにはいる。実際、大して社会に貢献してもいない小者。もしそういう輩が「銭湯」を偉そうに語るのなら。それなりに覚悟をもって語らないといけない。命がけで銭湯の暖簾を守り引き継いでいる者にたいして失礼。喧嘩を売っていることになる。どこの何モンだかわからないが知ったような顔をして銭湯の事を語らないように。もし売っているのならいつでも買うぜ。

ある対談集を読んだ感想として。

武蔵小山温泉 清水湯若旦那談。

心こそ大切!銭湯オヤジのつぶやき(武蔵小山温泉ポエムブログ)


「銭湯すたれば・・・」。有名な詩です。人と銭湯の繋がりを今昔を交えながらそして銭湯の温かさと人の温かさを表現した田村隆一氏の詩です。その後に続くのは「人情もすたる」そうなんです。昔も今も銭湯は人と人のつながりを保ち、そして繋がっていける。乾いた、冷たくなった、隙間だらけの心に温もりと優しさ、太陽のような明るさを与え、人間蘇生の大劇場を小さな銭湯の湯舟の中で演じることが出来るのです。「人生は劇のよう(趣意)」有名なシェークスピアの言葉です。そう銭湯の心あたたまる人間劇場はまさに人間蘇生、人間復活のハッピーエンドの劇であり、登場人物全員が主人公であり、社会における必要とされる人材なのです。

この世界に銭湯がある限り、世界は平和の道をすすみ、人々は優しさに満ち満ちてくることでしょう。最後にニーニェの「足下を掘れ、そこに泉あり」という言葉を贈りたいと思います。幸せは決して今いる世界の外にある訳ではなく、まさに自分の立っているその場にある。苦しい時も悲しい時も逃げずに前進していく。そこに自分だけの幸せの泉を見出すことができるのでしょう。今日も幸せの泉が湧き出ています。皆さまの心を笑顔に変える源泉が皆々さまをお待ち申しあげております。

武蔵小山温泉 清水湯若旦那談。

びわ大金持ち10年計画!(武蔵小山温泉石の上にも10年ブログ)


房総千葉。そしてそのなかでも南房総の特産と言えば・・・。そう「びわ」!なのです。第一位の長崎の1400トン(年間)、そして500トン(年間)の千葉が栄えある第二位!次は鹿児島だそうです。よく南房総、大原を超えて、御宿を超えて、部原(へばら)海岸にサーフィンに行くのですが、その帰り道、たわわに実っ房総産のびわはとってもオレンジ色でふくよかで大きくて皮もつるっと剥けて程よく甘く、種が大きくてきれいに実を食べることができるのです。そんな国産の房総産のびわは結構お高めでなかなか勇気がないと買い物籠の中に入れられないのですが、奮発して買った日は家族で愛おしそうにゆっくりと味わいながら食べるのです。そんな貴重なびわ、いつか宝くじが当たったら食いまくりたい妄想が高まってくるにしたがい、「そうだ!自家栽培すればいいじゃないか!」と気がついてしまったのです。埋めてしまいました。びわの種・・・。すると芽が出るじゃありませんか!

ああ、なんかこの感覚なつかしいみたいな、子供の頃銭湯のドブの横に土があってそこにジャガイモを埋めて育てたことがあった子供時代を思い出しました。この感覚なんか命を大切にする感覚、植物を育てる感覚は人としてすごく大切な感覚ということを思い出したのです。その前に食べ終ったびわの種が一本だけ大きくなっていましたが、肥料の配分を間違えて枯れかかっていますが、今、植え替えて蘇るのをまっています。そして新たに植えた種は順調に育っています。きっとこの子達が僕をびわ長者にしてくれることでしょう。いつか、「武蔵小山温泉」の番台でびわが売っていたら種から育てた、「びわ大金持ち10年計画」の縁起物のびわだと思いだしてくださいませ(笑)

武蔵小山温泉 清水湯若旦那談。

積極的平和温泉学(武蔵小山温泉平和ブログ)


古き良き時代。それは昭和。昭和は別名戦争の時代と言われています。そんな時代に生まれた名作「はだしのゲン」子供時代にこんな悲惨な時代があったのかと心が怖さで震えた記憶があります。それと同時に、「火垂るの墓」いつの時代も一番の被害者は「こども」そして「女性」。一部のエゴのために罪のない人々が悲しい環境に置かれることを為政者はもっと自覚しなければいけないのです。実際、戦争体験した人は平和主義になると言われています。それはあまりにも酷い時代残酷な行為。どんなに正当化してもしきれるものではありません。環境、時代は巡るといいますが、喧嘩を知らないケンカの仕方が分からない、そもそもケンカは弱い奴がするものだとわかっていない。信じる前から眼鏡が曇っていて偏っている、喧嘩の原因などそもそも小っちゃい理由がほとんどです。そして戦争も同じなのです。そこに金やしがらみ(利権)が絡んでくるから訳が分からなくなる。

いずれにしてもあの時代にもどしてはいけない、そう強く思うのです。時代は激動の時代に突入していくかもしれません。歴史の本流の中に巻き込まれても、平和への判断力、思考力、そして他者への包容力、優しさを決して忘れない、常に軸を確固としてもった積極的平和実践者になっていくことが大切でしょう。目の前にある小さな行動でもいいのです。それがポッと心を温める種火になればいいのですから、そしてまずは自分の心から温めましょう。冷え切った心には思いやりの心も灯りづらいですから。今日も平和への狼煙のごとく「湯けむり」が天に舞っています。皆さまのお越しを心よりお待ち申し上げております!

武蔵小山温泉 清水湯 若旦那談。

温泉連鎖(武蔵小山温泉心もホットするブログ)


世の中にはいろんなスパイラルがあります。いつまでも闇の中から抜け出せない、不幸の連鎖、いつまでも憎しみ合う不審の連鎖、いつまでも満足することが出来ない心の貧しさの連鎖、そしていつまでも四面楚歌の状態で首も回らない生き地獄のような悲しい連鎖、どれも心の置き所で変革することができる連鎖ではないでしょうか。心に錦をといいますし、病も気からともいいますが、すべては心の持ち方、置き方だけでも今いる立ち位置を変えることは簡単にできるのではないでしょうか。ある本にありましたが、原因と結果は一体で「よし決めた!」と思った瞬間にすでに結果は決まっているといわれています。あとはただ行動するだけ、ならば決める!言い換えれば「決意」する前向きな心の持ち方、そのたったそれだけの小さな違いだけで結果が伴ってきて、思った通りの結果を得ることができるのなら、そんな安上がりないい話はないのではないでしょうか。当然、行動の中に、試行錯誤や、血の小便のでるような努力があるのは当然ですが、ここで大切なのはそもそも自分自身を信じて疑わないその心の定まり方が大切なのです。

突き詰めていってしまえば、世の中の誰が自分を信じなくても、誰よりも自分の存在をしっている自分自身が「俺はできる!」と信じればいいだけの事なのです。そして見事結果を出す!この「負けない」そしてじりじり少しずつでも上向きに前向きに自分の立ち位置を持ち上げていけばいいではないですか。その心の強さの源また元気の源となる「天然温泉」で心を鍛え、休めて、常に前進のスパイラル(連鎖)を繰り返し進んでいきたいものです。さー今日から決めましょう!不幸の連鎖を断ち切り、絶対に幸せになると決めた幸福スパイラルを進んでいきましょう!

武蔵小山温泉 清水湯 若旦那談。

オンリー湯(武蔵小山温泉ポエムブログ)


今日も輝く太陽が昇ってくる。武蔵野の東の丘陵にある、僕の愛する街、武蔵小山。

竹の子の産地としてその昔、江戸の庶民の糊口を潤していた。

昔から江戸の外れ今も、昔も変らぬ太陽の運行リズムに照らされて青々した竹林が人々の笑顔とともに輝いていた。

今も、変らぬ笑顔が輝いている。

その輝きは武蔵小山に突如、湧きだした人々を幸せな心にかえる不思議な二色の慈しみに溢れた湯なのかもしれない。

社会は厳しい、矛盾だらけかもしれない、殺伐とした世相が広がっている、不信と憎悪が渦巻いている、何を信じ、何を守れば、本当の自分に生きられるのか、答えは誰もわからない。

だけど、きっと、その輝く太陽が知っている、そしてその眩い光が降りそそぐ、

その湯は、人々のかたく絡まった心の鉄鎖をも、優しげな心のひだに変えることが出来るだろう。

希望、その忘れかけた言葉、思い出させてくれる、鉄鎖の奥底に沈んで見つからなかった心の羅針盤。

その明滅する灯はきっと消えかけた火種となって、今まさに燃え上がろうとする。

思いだして、忘れかけたあの時の希望と強さと優しさに満ち溢れたその心に湧き上がる迸る命の輝きを。

今日もビルの陰影を映し出す東の地平線から金色の希望しかない太陽の輝きを全身に受けながら(浴びながら)

陽が中天に射しかかるころ、眩い光の星屑を振りまきながら天使のような湯煙が太陽に向かって昇っていく。

詠み人知らず(笑)

武蔵小山温泉 若旦那談

風呂馳走!(武蔵小山温泉雑談系ブログ)


飽食の時代。ある有名人などの豪勢な食事のシーンをテレビで見ていると煌びやかに着飾って、何万、何十万もする食事を大してうまそうな顔もせずに食べているのをみていると、めぐりめぐって、ただ臭いうんこしかしない人なのではと思ってしまうのは僕だけでしょうか。あの豪勢な食事のほんの少しでも貧しい人に施してあげる心があればそれだけでもかなり貧困貧食問題が解決できるのではないでしょうか。経験上、一番簡単なことが喧嘩すること。本当に誰でもできるのです。そこを堪えてケンカしない知恵が人として高貴になり、内面から輝ける一因になるのではないでしょうか。基本、知っている者同士ならケンカはおこりません。

知らない者同士、突き詰めれば「不信」がケンカの原因なのです。他国とのケンカも「不信」顔が見えない、会ったことがない、ただ第三者のまわってきた話しか聞こえない。悪口が情報として操作されていたら、不信感で一杯の人ならすぐにケンカです。ケンカしたことあります?勝ってもたいして嬉しくない。それがケンカです。ちっとも心が晴れないそれがケンカです。鏡に映ったバカな自分と言い合っているような錯覚に陥るのがケンカなのです。安くても美味しい怖いけど優しい妻がつくってくれる心のこもったご飯をたべましょう。一部の特権階級しか食べれないものなど、くっさいうんこの原料にしかならないのです。平和。それは毎日の心温かいものに含まれているでしょう。きっとそれは温かな温泉にも心の滋養となり、物事の本質がくっきりと見えてくるのです。だから愛情あふれる食事、そして心も温まる温泉活動。平和を希求する温かな心は毎日の何てこともないごく当たり前の中に存在しているのです。風呂もご馳走、心の栄養源なのです。

武蔵小山温泉 清水湯若旦那談。

おんせんハート♪(武蔵小山温泉ポエムブログ)


湧いてる湧いてる今日も天に昇っていく。湧いてる湧いてる朝日に照らされた湯の化身。

輝いてる波紋は幸せの足跡、今日も天にむかって喜びの声が昇ってる。

広がる広がる温もりが広がる、ゆっくりとつま先から湯船に浸かっていく。

忘れない忘れない、かけ湯をすることを。

何故だろう何故だろう。温まる。温まる。心が温まる。

心が安らぐ、この黄金色と琥珀色。そうすでに心が奪われている。このふたつの優しい温もりに。

降りそそぐ降りそそぐ天から降りそそぐ、この湯煙が光の王冠に包まれていく、その光の煌めきに。

忘れない忘れない、楽しい麗しい、優しい気持ちになったことを。

思いだすあの笑顔、思い出す僕の笑顔、きっと今日も輝くだろうみんなの笑顔。

温まる、温まる、心が、カラダが、笑顔が、きっと生きる道しるべなのだろう。

そう求めていた。そう温かな生きる道を。見つけたその優しい光に包まれた波紋を。

武蔵小山温泉 清水湯若旦那談なんとなく歌ってみたくなっちゃった。

誇り高き銭湯の民(武蔵小山温泉平和希求ブログ)


武士は食わねど高楊枝とはいいますが、誇り高き武士の痩せ我慢を言い当てた言葉とも言われています。民俗学が好きな若旦那ですが、武士は武士で厳しい身分制度の下熾烈な生存競争をくり返していたのです。人は平等といわれていますが、世の中あまりに憎悪が多過ぎてまた軋轢、不寛容によるいざこざも多すぎます。そして世界中に広がるテロの様相、この世界はどこに行こうとしているのでしょうか。現実に目を向ければ向けるほどに矛盾だらけの世界にみえてくるのは僕だけではないでしょう。世の賢者、それも創始者、創造主、預言者的な人たちが集まって話をすれば一番、問題解決は早いと言われているのです。例えば、キリスト、アラー、仏陀、ゴッド、最初の言いだしっぺですよ。人を救いたい、人を幸せにしたい、その熱い命を共有できる人たちが話が合わない訳ないのです。

ではなぜそれら宗派ごとに現在では争っているか、ただ単に「金」です。しがらみ、利権、美味しいご飯に美味しいお酒、そこにはすでに大本である創始者の心はないのです。あきらかに戦争がビジネスとして金儲けの道具になっている昨今、その悪しきスパイラルを断ち切るのはそれを作り上げた強欲のそして自分本位の生命観を変革するしか道はないでしょう。その変革する方法こそ「心を温める」ことしかないでしょう。温かい心は人に対して優しく、信じて、励まして、喜びを共有でき、心麗しい友人の輪を広げることができるのではないでしょうか。誇り高き心に慈悲の心も生まれてくるというものです。昔の身分制度も今は無いのです。その気になれば出来ないことはないのです。平和の世紀を創れる心の源泉。武蔵小山温泉は平和創造主義なのです。

武蔵小山温泉 清水湯若旦那談。