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小説 俺の銭湯 第5章!『日雇い人足の日々』武蔵小山温泉Webパブリッシング


『日雇い人足の日々』

 

人は平等だ。とくに時間の流れはすべからく平等だ。

そして時の流れるのは早い。

光陰矢のごとしだ。

 

日は昇り沈む、無為(むい)な日々をすごしてしまった。その間も銭湯の灯は消えそうな陽炎(かげろう)を時間の流れという水面(みなも)に明滅しながら映しだしていた。

絶えず耳に木霊(こだま)する釜の扉を開け閉めする音。

うっすら灯った蛍光灯の光が照らし出す煤けた「火袋」は神聖な場所だ。パチパチと燃え盛る炎の色がひとつの生命体のようであった。その光が黒く煤けた壁に反射する。そこは昔から「畏敬の念」を感じる場所でもあった。

 

大きな雲が俺の頭の上をすっぽり覆っているようだった。

俺の心に暗雲がたちこめていた。

「ガチャン、ギー、ゴソゴソ、ギー、ガチャン」

今も、オヤジが釜に薪をくべる音がする。銭湯は相変わらず閑古鳥が泣いている。

そんな銭湯には、火袋と同じように暗くて幽々とした部屋があった。漆喰が塗り込められた殺風景な寒々とした裸電灯しかない約三畳の部屋にはオヤジの書庫部屋で、ほとんど開かずの間だった。四面の本棚にはびっしり本が詰め込まれていた。

俺は一八歳になっていた。その頃の俺は一時、暦のない生活をしていた。そして自問自答していた。なぜなら、俺はそれまでの三年間で二つの高校に行き、その二つとも退学したからだ。楽しい時間の記憶はなぜかなく、ただ無駄に過ぎ去った時間だけが心に重く圧(の)しかかっていた。結果としてオヤジとオフクロを裏切り、中卒のプー太郎になって俺は初めて、何もない自分に気がついた。そして、何かに取り憑かれたように書庫に引きこもり、オヤジの本を読み漁るようになっていた。

まだ銭湯の景気がよかった時代に育ったオヤジは、俺と違って大学出のボンボンだった。

そんなオヤジが読み貯めていた古典文学、史書、詩集、西洋文学、それに奥底に隠されていた春画などは、俺に「太郎、小さいことにクヨクヨすんな」と語りかけてくれるようだった。

 

世の中には「座右の書」というのがあるらしい。その頃、少し離れて俺を見守ってくれていたオヤジが、さらに一冊の本を読んでみろと差し出してきた。

それはデュマの『巌窟王』だった。

「なんだよこれは」

読み進んでいくうちに夢中になってしまった。そしてどんどん心の暗雲が払われていくような気がした。なんだか自分がとても小さな存在に感じてきた。

「なんでこの本なんだろう」

じつはそれはオヤジの座右の書だった。

「前に進むしかない。行動あるのみだ」

マジで思った。

そして裸電灯しかない陰鬱とした部屋から俺は出た。

その日は心ゆくまで湯舟につかった。俺を育ててくれた銭湯の湯が心を洗うように。

いつでも俺を信じて立ち上がるのを待っていてくれたオヤジに感謝し、オフクロに感謝し、何があっても味方になってくれるおじいちゃん、おばあちゃんの優しい微笑みを噛みしめながら、俺は家を出た。オフクロがそっと手渡してくれた三万円を握りしめて。そして土方(どかた)の日雇いで幾日も穴ばかり掘り続けた。道路の標識立てや白線引きもした。冬場は吹きすさぶ浜風がロジスティックの倉庫の荷捌き場を足元から冷やし、夏は二〇フィート、四〇フィートのコンテナ内の蒸風呂のなか荷捌きをする港湾の肉体労働に従事した。他に古紙回収のちり紙交換、宅配業、テレホンアポインター、場末の飲食店での皿洗い……。職を転々としながら体力がもつ限りなんでもやった。

海苔弁を二つ食べるのが最高の贅沢だった。カップラーメンが買えず袋麺を丼にいれて湯を注いで皿でふたをすると普通に食べれることに気がついた。たまに近くの銭湯が本当に気持ちよく、銭湯のよさをあらためて実感した。その間に、俺は大学入学資格検定に挑戦し合格した。

二年が経とうとしていた。

ギラつく夏の港湾のロジスティック倉庫。この時も昼と夜の二足の草鞋で飯を食っていた。

不法労働者の中国人のボーが話しかけてきた。

「太郎。いつまでこんな仕事やってるのよ?」

ボーは入国一〇年目だ。城南島の倉庫では現場リーダー的な存在だ。だが不法入国扱いではないが不法労働は否めない。なぜなら労働監察局が視察にくると日本人の俺が即席の現場リーダーになるからだ。

受け答えは俺がする。フォークリフトの上役がいて目配せで当意即妙で受け答える。その時だけ普段しないヘルメットをかぶる。

中国人のほかに台湾人。あまり日本人はしない仕事だ。いわゆる人足といわれる仕事内容はかなり過酷な仕事のひとつと言えた。

「いつまでもこんな仕事してたらダメあるよ。おいらもお金たまったしそろそろ中国に帰るよ」

川崎の場末のステーキ屋のご主人がいい人で、雨露をしのぐだけならという約束で倉庫兼用の汚い部屋を無料で貸してくれた。

昼は港湾労働、夜はステーキ屋。

城南島の倉庫街は空が高い。

すぐ目の前は羽田空港が俺とは無関係の世界との架け橋として広がっていた。

ほぼ定間隔で飛行機の離発着の音が南風にのって聞こえる。

そんな騒音はふっと銭湯の郷愁を呼び起こす音だった。

それは丸ノコの角材を切る音だ。

「ああ、ボーお前もそろそろ帰るのか」

「そーあるよ、家族がまってるからな。やっとお金もたまったし、それにここの仕出し弁当まずくてやってらんないあるよ」

頬と鰓のはった黒く垢焼けたボーの顔はどこか小さい躯体のわりに大きな大陸の風を連想させる何かがあった。ボーは中国大陸の東北出身だった。

この倉庫では力の強い俺と口ばかりのボーが組んでコンテナ内で作業することが多かった。ただボーの言うとおり荷捌きをすると不思議と完璧に荷物を積み上げることができた。

港湾労働でひとつ荷物が積みこめません、ドライバーさん持って行ってもらえますか?は通じない。コンテナは海外に広がる海を駆けめぐる大型コンテナ船に載せるのだから。無駄のない完璧な荷積作業を求められる。もし入らないのなら全部出して一から入れ直しになる。

フォークマンにどやされながらも笑顔を忘れないそして常に先の仕事の段取りを考える、異国の地で逞しくいきているこの中国人はどこか憎めない愛嬌をかんじる小男だったが、むしろ俺にはないものをもっているようにも感じた。

この過酷な仕事に従事している外国人はむしろ日本人より根性があった。

相変わらず青空が広がっている。時おり申し訳なさげに小さい綿雲が頭上を流れていく。

そろそろ休憩時間も終わりそうだ。

ふっと青空に浮かぶ銭湯の煙突が脳裏に広がってきた。

「そうだな。そろそろかな」

「家出してるのか、太郎?」

「馬鹿野郎。家を出てると言え!」

「ははは。ごめんごめん」

「ま、大して変わらないけどな」

「家はなにしてる?」

「ああ、銭湯ってしってるか?」

「知ってる行かないけど。風呂は事務所のシャワーですませてる。節約にもなるし」

「銭湯はいいぞ。一度行ってみろよ」

ボーは俺の目を覗(のぞ)いた。

そしてニコッと笑った。

結して労働環境がいい訳ではない職種だ。保障もない。体を壊す港湾労働者も多い中、ただの日雇い労働者としてこの仕事を選んだのには訳があった。

とにかく厳しい世界で。そして何処よりも底辺の世界で鈍(なまくら)な自分を変えるためだった。

心と体に筋肉がついてきた時だった。

 

 

オヤジから突然電話がかかってきた。

「おじいちゃんが危篤だ、すぐに帰ってこい」

武蔵小山の駅に降り立った。

改札をでて東口の階段を上ると立ち食いそば屋の黄色い看板テントとが目に入ってくる。数件隣の鳥勇からは相変わらず香しい煙を吐きだしていた。昔、闇市だったりゅえるの路地裏横丁を抜けると一番通りにでる。 久しぶりの武蔵小山はなんだかすこし空気が変わっているように感じた。この町は地味だが確実に変わっていっている。日焼けして精悍になった俺の顔を見て、オヤジはすこしだけ頬がゆるんだように見えた。

「頑張ってるな」

「ああ」

心なしかすこし痩せたかなと思った。

早速、のぼり馴れた急勾配の階段を駆け上がって居間の奥で寝ているおじいちゃんの枕元に佇んだ。

擦りガラスの窓から乱反射した西日の光がおじいちゃんを包みこんでいた。

すこし喘いだ呼吸音が聞こえた。

オヤジと同じでたばこ好きなおじいちゃんは末期の肺ガンに罹っていた。

 

その晩、誰からも愛されていたおじいちゃんは、俺たち家族に見守られながら天に昇っていった。人はどこから来てどこへ旅立つのだろう。いつも優しかったおじいちゃんがいなくなって屋台骨のひとつが欠けて清水湯の灯火が少し暗くなってしまったように感じた。

 

よせてはかえす波のように人は生まれそして死にゆくのか……。優しいおじいちゃんはいつでも瞼を閉じれば蘇ってくる。俺たちの心の中では永遠に生き続けているのだ。

 

オヤジはぼそっと誰に言うでもなくつぶやいた。

「おじいちゃんにはいつも敵(かな)わなかった」 普段、オヤジがおじいちゃんのことを語ることはなかった。いつもボロボロのグンゼのパンツをはいていたおじいちゃんしか見てなかった俺も、おじいちゃんの偉大さに初めて気がついた。

それは、この二年間底辺の仕事を繰り返す中、長年銭湯という灯を守り伝えていくことがいかに大変かを痛切に感じていたからだった。

家を飛び出たことは無駄ではなかったようだ。

夫婦になってお互い皺だらけで何十年も経つのに、おばあちゃんはいつまでもポロポロ泣いていた。なんだか皺くちゃの夫婦愛を見たような気がした。孫にはやさしかったおじいちゃんを思うと、俺も涙がとまらなかった……。

 

俺はそのまま家に戻ることになった。清水湯の黎明期から衰退期までずっと支えてきてくれたおじいちゃんがいなくなってから、銭湯の灯の陰りがさらに深くなってきたのを境に少しオヤジに変化が現れはじめた。

 

「最近、オヤジ、寝てることが多くなったね」

バブルの真っただ中だった。俺は友人の誘いで会社勤めをした。当然、営業職だ。当時は中卒でも、会社員になれる時代だった。会社から帰って見ることが多くなったのは、オヤジがベッドの上で寝ている姿だった。

オフクロが心配していた。

「最近、部屋にこもりがちなの」

そして「感情の起伏が大きくなった気がする」

前から怒ると怖いし、昼寝ぐらいはするから気にも留めなかったが、あきらかに顔に生彩がなくなっているのがわかった。

俺がいなかった二年の間にすこしオヤジも歳をとってしまったのか。

筋骨隆々、いつも怖くて強いだけのオヤジが、己の宿命と向き合う時が本格的に来ていたのだ。

 

それは、俺たち家族の宿命でもあり、また戦いでもあった。

 

苦難に飛び込むか逃げるかは自分次第だった。

 

天候に左右されることはある。心に不安という雲が立ちこめることもある。しかし、心に左右されず心を左右する強さがあれば負けることはない。俺は何の心配もなかった。俺はオヤジの血を受け継いでいる。諸刃の剣だったが俺は自分の強さを信じた。

 

オヤジの部屋に入っていった。、

ベッドの上で横たわっていた。

「オヤジ最近調子悪いのか?」

すこしバツの悪い顔をした。

「ああ、実は若い頃から兆候はあったんだ。誰にもいってなかったが」

オヤジは若い頃の野球の鍛錬で今までやってこれたと言った。

おじいちゃんもおばあちゃんも知らなかった。オフクロには話していた。

「オヤジ。なんだか、わからないけど辛いのか?」

「がはは、お前みたいな、バカな能天気にはわからねえよ」

虚勢を張ってみせた。

息子の俺にはあくまでも強いオヤジでいたいのか、強がるのがわかった。

「あー、わかりたくもねーよ、だからバカでよかったと思うよ」

どこか隠し続けられるならそのままにしておいてほしい。そんな顔もしている。

「おやじ、風呂の掃除は俺が全部するから楽しいことだけしてろよ」

俺が言うと

「ばかやろう、じじいあつかいするんじゃねえ」

オヤジは強がった。

「太郎、お前もサラリーマンが忙しいんだろ、無理すんな」

俺は一言、

「俺はオヤジの強いところだけを、もらっているから大丈夫だよ」

そして「必ずよくなるから心配するな、オヤジ」と言って部屋を後にした。

寝ることが多くなったとはいえ、まだ強いオヤジがそこにいた。

二つの高校を辞めた俺の学歴は中卒だ。オヤジは俺に一度でも「勉強しろ」と言ったことはなかった。おそらく言われてもしなかったと思うが、その意味が最近になってよくわかる。

「バカでいい、ただ強くあれ、ただ負けない男であれ」

オヤジはきっとそう思っていたに違いない。

 

躁鬱病が己の宿命でなくしてなんであろう。

自分の努力だけでは如何ともすることができない過酷で無情な真理があることにオヤジは気が付いていたのだ。

そんな宿命を自分の子供にまで受け継がせたくない。

それが親の心だと思う。

バカでも心は強い一匹の男に俺はまんまと育てあげられていた。

 

毎日の風呂の掃除。

毎日の薪仕事。

毎日の会社勤め。

 

日々の挑戦をすることこそが、今、俺にできるたった一つのオヤジへの孝行だとばかりに、充実した毎日を送っていた。だが一方オヤジは足の皮が少しずつ厚くなっていくように、この躁鬱病という病気は頑迷の度を増(ま)していった。

そんな俺は相変わらずの能天気さで、そのうち、またオヤジは調子がよくなると信じて疑わなかった。だがその後、宿命の荒波はオヤジを苦しめることになる。

 

木の葉のように揺れている清水湯と同じように、オヤジの運命もまさに木の葉のように人生の波に翻弄されることになるのだ。

若旦那太郎著  第6章『躁鬱オヤジの決断・黒湯誕生』につづく

小説 俺の銭湯 第四章 『因果応報』(武蔵小山温泉Webパブリッシュメント)


『因果応報』

 

「たろう――く――ん」

一日が黄昏、夕飯を食べ終わる頃、タカナミとカツがやってくる。

「おーあがれよ」

窓から顔を覗かせて言った。

「おじゃましまーす」

案外、礼儀正しい。

俺にではなくオヤジとオフクロにだ。

 

タカナミとカツはケンカの相棒でもある一面、毎晩、わが清水湯で暴れ回った汗を一緒に流す風呂友でもあった。どうやら銭湯にはその日の贖(しょく)罪を湯煙とともに流してしまう効能もあるようだ。湯舟につかりながらタカナミが言った。

どこか遠くを見ている。

「来年は卒業だな」

タカナミは工業高校が志望校だ。町工場の息子だった。

 

風呂の縁に座っているカツは髪型が気になるのかしきりに手のひらで撫でつけながら、

「ああ、そう」

気のない返事をした。

カツは親友会の通りに面した魚屋が実家だ。寿司の板前になる夢をもっていた。

俺は立ち上がり二人に向き直った。

「楽しい高校時代がまってるぜ」

俺が言うと二人とも頷いた。

「っていうかお前は高校行くのかよ?」

「ああ行くぜ!」

2人とも不思議そうにして顔を見合わせた。

これ以上話しても栓なしのように。

なぜか話題をかえられた。

「ともかくオヤジさんには感謝しなくちゃな」

タカナミが言い、カツが頷いた。

毎晩、タダで銭湯にはいることに恩を感じていたようだ。

きっとタカナミとカツとは腐れ縁となってこれからもつづいていくのだろう。

そのまま熱い湯舟に何分息を止められるか頭を沈めた。

 

 

翌朝、

味噌汁の匂いと朝日が充満した居間。

オフクロが炊いてくれた新潟のほっくほくした美味しいご飯に納豆をかけて、かきこんだ

一足先に朝餉(あさげ)をすませて、鏡の前で顔を覗いた。寝る前に氷嚢(ひょうのう)で冷やしたからほとんど腫れは引いていた。

オヤジも朝餉をすませて洗面台の鏡の近くにやってきた。そして紫煙を美味そうに吐き出しながら言った。

「太郎、今日もちゃんと学校行けよ!」

ちらっと一瞥(いちべつ)して再び見た鏡の中の俺は伸びきったパンチパーマに眉毛がなかった。

「行くに決まってんだろ。俺の給食をカツに食べられちゃうじゃねーか」

それまで中学で勉強をした記憶がない。学校は好きだった。とくに給食が好きだった。

薄い学生鞄を小脇に挟みながら一言投げかけた。

「オヤジ、オフクロ、俺、高校行くぜ!」

オヤジもオフクロも目をきょとんとさせて、一瞬、理解不能な顔をした。

昨晩、風呂の掃除が終わった後、煙突脇にある物干台に氷嚢で冷やしながら寝そべって夜空の星を見ていて、ふと思った。

「もうすぐ中学も卒業だ」

そして「このままじゃいけねえ」

バカはバカなりに、普段は見ても何も感じない規則正しい星の運行リズムに、この時は何かを感じたのかもしれない。

学校に着くなり担任に意気揚々と話した。

「先生、俺、高校行くぜ!」

「……」

しばらく無言の後、

「川越、お前何言ってんだ」

なぜか怒っているようだ。

「今さら、お前の行ける高校はないぞ」

無情な答えが返ってきた。

子供の頃お習字を三ヵ月ほどしていたおかげで自慢じゃないが字は得意だった。中間テスト、期末テストには荘厳に筆圧強くそこらじゅうはみ出して名前だけは書いて提出していた。

能天気な俺はその時、初めて自分の置かれている立場を理解した。そして心の中でつぶやいた。

「これが因果か……!」

当時から偏差値偏重教育がもて囃(はや)されていた。偏差値は五〇を中心に上は七五、下は二五のどこに自分がいるか一目でわかる優れたモノサシではあった。ただこの数値化されたモノサシで人を篩(ふるい)分(わ)けしているとも言えた。

俺の偏差値は二八だった。最低レベルをやや免れていた。

名前が書けると偏差値+三だと気がついた。

 

俺は猛烈に勉強を始めた。そんなある日のこと。

芸は身を助ける

世の中にはこんな言葉があるのをご存知だろうか。俺は子供の頃から水泳が得意だった。なんの気なしに出た水泳大会でそこそこの成績を収めるのを見た近くの私立高校が、推薦で入れてくれたのである。

「このままじゃいけない」と心を入れ替えた気になっていただけの俺は、なんとなく運がいいな、努力しなくてもやっていけるんじゃないかなどとまたもや調子に乗りかけてしまった。始めようとした勉強もやめた。坊主頭だらけの線香くさい高校に行くことになるが、その後、俺は人生簡単にはいかないことを知ることになるのである。

若旦那太郎 第五章 『日雇い人足の日々』に続く。

小説 俺の銭湯 第三章『家族団らん』(武蔵小山温泉Webパブリッシュメント)


『家族団らん』

 

日々、湯煙がたゆっている。

銭湯家族の心を癒すかのように。

核家族化がすすむ昨今。あの頃は家族三世代が当たり前だった。

屋根に登ると北東の方角に東京タワーが見えた。

オレンジ色に輝いていた。

時おり、大井ふ頭からは東風(こち)の風にのって汽笛の音が聞こえてくる。

そんな日は雨になることが多かった。

 

西の遠く、低い空にはうっすらと富士山が見えた。

武蔵小山は高台と気がついた。

今でも変わらない煙突の浮かぶ空はどこまでも青くて綺麗だった。

 

夕飯の少し前、

おばあちゃんが洗濯物をたたんでいた。

おじいちゃんのグンゼのパンツをひろげながら

「おじいさん、そろそろ新しいパンツにかえたらいかがですか」

おばあちゃんはどこか尊敬の念がまじった言葉使いをする。おじいちゃんを陰日向に大切にし、支えていた。いつまでもおじいちゃんに寄り添っていた。

おじいちゃんは無言で頷(うなず)いた。

おじいちゃんのパンツはどこもかしこも穴だらけだった。

それを見ていた俺は脱がなくてもおしっこできるんじゃないかと思った。

おじいちゃんは頑(がん)としてその穴だらけのパンツを履き続けていた。

おばあちゃんは箱入り娘だったらしい。それが薪をもってくる出入りの大工だったおじいちゃんと出会い恋に落ちた。戦前の話だ。

 

二階の居間は釜の上にあった。

柱はすすけ、畳をかえてないから波打っていた。だが、

南窓は大きく、陽が降りそそぎ、いつでも温かだった。

そこは三世代の家族が何はなくても団らんできてひとつになれる場所でもあった。

 

食卓に皆座っていた。

固い沢庵をかじりながら、

「太郎、べつに風呂屋なんて継がなくていいんだぞ」

オヤジが笑みをうかべて言った。

はっきりと銭湯を継ぐとは考えていない、だが心のどこかで俺がいつかやると感じていた。

俺は突っかかるように言った。

「なんでだよ!」

わかっていた。

「こんな儲からない商売、かわいそうだからやらなくてもいい」

どこかでがんばって作る笑顔を滲ませているようだった。

俺は銭湯が好きだった。オヤジも銭湯が好きだった。それでも「銭湯をやめてもいいんだ」と息子の俺に言うほど、清水湯は傾いていた。

貧乏銭湯だということは知っていた。

「でも土地はデカイじゃんか」

裕福な同級生の家富の家よりデカイと思っていた。

「デカくてもうちのじゃねぇ」切り捨てられるように言われて謎だけが残った。

大風が吹けばどこかに飛んでいきそうな、風前の灯の銭湯だった。オヤジはこの銭湯のすべてを背負いながら矢面に立っていた。そしてオヤジを中心に家族一丸となって清水湯の灯を守っていた。

だが内情はどこまでも厳しかった。オヤジの給料は出なかった。自家風呂が普及するほどに銭湯にはお客様が来なくなっていた。気が付くと、広い銭湯の湯舟は俺以外誰もいない貸しきり状態だった。意を決して大枚はたいて中普請した。お客様が戻って来たと思ってもまたしばらくすると元の木阿弥。なかなか軌道にのらない堂々巡り、呪われているのかと思うくらい人気がない銭湯は熱い風呂の割に寒々としていた。

 

 

オヤジは、ただ「負けない」という思いだけで、淘汰という怒涛の流れに逆らうように俺たちを守ってくれていた。

人は必ず生まれてくる。

人は必ず歳をとる。

人は必ず病気になる。

人は必ず死ぬ。

そんな理(ことわり)に人は逃れることはできないのかもしれない。

きっと人だけではないだろう銭湯も同じ理を有していると思う。

なにもしないで死ぬだけならみな不幸の道をたどっているかもしれない。だがそのなかで幸せの花を幾つ咲かすことができるかで幸せの色彩は変わってくるのだろう。

…その理、のなかオヤジの生まれた星には病気という星が宿っていたようだ。

「躁(そう)鬱(うつ)病」

という宿星だ。

オヤジは少しずつ、自分の体の変化に気づき始めていた。

俺たちには内緒にしていた。

 

努力しても気持ちがふさぎこんでくる。

「は――……」

俺らのいないところで溜息を漏らすことが多くなってきた。

むしろ真面目な性格、頑張る性格の人に落とし穴のように行く手にぽっかりと穴をあけて待ちかまえている。鬱(うつ)病とはそういうものだ。

 

見方によっては業障(ごうしょう)なのかもしれない。

気が晴れない。憂鬱(ゆううつ)がつづく。

若いころから前兆はあったようだ。ただ、オヤジはそれが病気だとは思わなかった。今でこそ鬱(うつ)は「心の風邪」なんて言われるが、当時はそれほど一般的な病気ではなかった。ましてや、能天気な俺には理解できない病気に少しづつだが、止(とど)まることをしらないこの病気に確実に蝕まれていった。

だが俺たちの前では、オヤジは努めて強さを演じていたのだった。

今もオヤジの声が時々耳をかすめていく。開店前になると、オヤジは元気一杯告げるのだった。

「さー、開けるぞー! 開店だー」

一世を風靡したテレビドラマ「時間ですよ」みたいな感じである。

そしてオフクロが「はーい」と応えるのだ。

子供の俺が見ていても、オヤジとオフクロはとても仲良しだ。

オヤジがどこかの街で声をかけたのがオフクロだった。

いわゆるナンパだ。そこから恋愛に発展し結婚に至った。

オフクロよりオヤジの方が好きで好きでたまらなかったらしい。

俺はかなり大人になるまでお見合い結婚という嘘を信じていた。

いずれにせよ夫婦仲はよかった。

そして、家族はあたたかかった。俺がどんなにやんちゃしても、家には俺の居場所があった。ただ銭湯の湯舟だけは淋しげで寒々しかった。 いつやめるか、それともいつ潰れるか。毎日が葛藤の日々だったに違いない。

「太郎、銭湯を継がなくてもいい」その言葉よりも

「太郎、お前の代は清水湯はないかもな」という言葉のほうが現実味が増してきた。

そして、その言葉が日々、重みを増すようになってきた。

 

 

俺には努めて強さを演じていたオヤジだが、いつもオフクロと銭湯の不安な将来を話していた。

風呂掃除が終わったあと風呂あがりに晩酌をしながら夫婦二人で寝室に戻り、俺たちには見せない弱気の言葉を吐き出すオヤジがいた。

「おい、おまえ。もうやめようか」

笑顔で受け止めるオフクロがいた。

「銭湯やめてどうするの?」

「勤め人になる」

オフクロは笑って、

「あんたが背広着て電車に乗って、会社に勤められるわけないじゃない」

俺はオヤジに似ていた。

オフクロはとどめを刺すように言った。

「銭湯なのよ、あんたは」

東京生まれ東京育ちのオヤジに対して、オフクロは雪国の新潟で生まれ育った。どこまでも続く新潟平野は遠くに山波が墨絵のように浮かんでいた。米どころの肥沃な大地は豊かな田んぼが広がっている。阿賀野川から分かれた支流の小川や用水路には小鮒やメダカ、モロコにタナゴ、手長エビにタニシがゆれる水草と戯れていた。平野に広がる朝日と夕日はどこまでも大きな空に彩りをあたえていた。鳥もトンボも紋白蝶(もんしろちょう)も季節に応じてのびのび飛んでいる。そんな雄大な自然あふれる故郷を持っているオフクロは、どこかほのぼのとしていながら、芯がつよく我慢強かった。まるで雪解けを待ちながら雪の中で芽吹いている蕗(ふき)の薹(とう)のような典型的な越後女だった。母親は一家の太陽というが、まさにオフクロはオヤジにとって太陽そのものだった。

オヤジはオフクロには強がりたいのだろう。

男としていいところを見せたい思いもあったのだろう。

「そんなことないよ。俺も若いころはブイブイいわせてたんだ!」

「足腰のよわいおじいちゃん、おばあちゃんたちが笑顔で帰っていくのよ」

強そうに見えても時折、弱気になるオヤジをオフクロは俺たちに見えないところで励まし続けていた。

 

 

相変わらず固い沢庵を小気味良く咀嚼(そしゃく)する音を奏でながら、

オヤジがまじまじと俺の顔を見た。

そして突然笑い出した。

「ぶあっははは!ところでなんだその顔は?」

時間がたって顔が腫れてきたようだ。

「相当殴り合ったらしいな」

オヤジは、俺のすこし右に曲がった鼻を見て大笑いしていた。オフクロも、笑いをこらえているのがわかる。おじいちゃんとおばあちゃんは、いつもの変わらない孫を慈(いつく)しむような微笑をたたえている。

「まぁ、負けなければいいさ」

いつものように夕暮れ時の家族団らん、オヤジを中心にオフクロの美味しい夕飯を食べている。オヤジとオフクロは初めて見る息子の腫れ上がった顔に笑い転げていた。

「それが因果(いんが)というものだ。今まで、何人お前にそういう顔にされた子がいると思うんだ」

普段無口だが言葉に重みがある。

「鼻がついてるだけでもよかったじゃない」

オフクロは気にもとめない。

俺は、少し口の中も切ってるなと思いながら

「なんだよ、インガって? ちゃんと説明してくれよ」

一切れ沢庵を口に放り込んだ。

オヤジは笑いながら、原因と結果みたいなものだ、そのうちわかるだろうと言った。そして一拍おいてしみじみした顔で言った。

「太郎、おまえはいいな」

「あ、なにがいいんだよ」

バカ面で俺が聞き返した。

「お前はバカでいいな」

臆面もなく息子に言った。

「ふざけんなよ。オヤジ! 」

俺は釈然としないながらも、腫れ上がったバカ面で、やけに固い沢庵を噛み続けていた。

オヤジは食事が終わると紙巻きたばこを咥えて火を点けた。

立ち上がると、おじいちゃんとおばあちゃんにご馳走様と軽く頭を下げた。

銭湯の家族団らん。

どこか独特な時間の流れをいつも感じていた

第四章 『因果応報』につづく。

武蔵小山温泉 若旦那太郎

小説 俺の銭湯 第二章 『淘汰の波』(武蔵小山温泉Webパブリッシング)


『淘汰の波』

 

銭湯にはいくつかの独特な旋律がある。

そのうちのひとつは軽やかなメロディーのように聞こえてくる。

心からあたたまる音だ。

 

銭湯の心臓部。

火袋から角材の爆(は)ぜる音が聞こえている。

赤茶けたの鉄釜の中の湯はぐんぐんと上昇してくる。次第に温もりは釜場の隅々まで満たされていく、ここにいると心まで温められそうだ。

覗(のぞ)き窓のある扉一枚に隔てられた風呂場からは湯舟に注ぐお湯の音が空間に跳ね返りながら心地よく聞こえている。

目に入るものすべてが煤けていた。年季のはいった太い柱に横たわる梁。

そして陽光が銭湯の大きな湯舟の水面を照らしだしていた。

心地よさそうに湯気が天に舞っている。

 

其処にいるだけで、子供心になぜかわくわくした。なぜか元気になった。なぜか心があたたまった。そしてなぜか幸せな気もちになった。

住むものを温かく包み込んでくれる。銭湯の家は釜の温かさがそのまま慈愛となり満ち溢れているのだろう。

 

もう一つは激しい音だ。どこまでも激しく大きな音だ。

作業場は銭湯の裏手にある。

おそらくどこの銭湯も同じだろう。

廃材を釜にくべるために毎日切りそろえなくてはならない。その際、大きな音がでる。

だんだん都心には馴染まない音になりつつあった。

もくもくと煙を吐きだす煙突もきっと同じことだろう。

 

 

かむろ坂の桜の花は毎年春になると咲き誇った。

土に水を与えれば芽吹き、心をこめれば花が咲き、祈りをこめれば果実をみのらせる。豊かになる道理があった。

いつからだろうなぜか銭湯に木霊(こだま)する喜びの声が聞こえなくなってきたのは、

与えても与えても心をこめても何も収穫できなくなり祈りが叶わなくなってきたのは。

 

祈りとは信じることだろう。

信じることは誰にでも平等に与えられている。

だが信じても報われることができなくなると心が荒(すさ)んでくる。

荒まずに信じ続けるには、人間的な強さが必要になってくる。

言いかえれば絶望を希望に変える力を試される。

 

きっとこの時代、オヤジは絶望という闇に襲われかけていたのだろう。

 

出口の見えない絶望。そこには希望はなかった。

オヤジの力になるにはまだ力がなさ過ぎた。

 

気がついたら、楽しげな喜びの声の代わりに、切なくて哀しい閑古鳥(かんこどり)の鳴き声しか聞こえなくなっていた。

 

天は変わらず晴れわたっている。だがよく見るとこの街の一隅(ひとすみ)にいまにも潰れかけた銭湯があった。

人々は貧乏銭湯……。清水湯と呼んでいた。

だが耳をすませば聞こえてくる。開け放たれた大きな窓から湯舟に注ぎこむ揺れる音、そして釜の爆ぜる音。

そして大音響。それらはまだ銭湯がしぶとく生きぬいている魂の唄のようでもあった。

 

 

銭湯の細い脇道を歩いていた。

鼻腔の奥の血の塊が気になっていた。

 

「鼻がすこし曲がったかな」ひとりごちた時、

 

「シュイ―――ン」

聞き馴れた音だ。それは遠心力が空気を震わす音だった。その音が高回転で安定した時、轟音に変る。

 

「チュイイーンン!!!」!「ビビビビーンン!!!」!

丸ノコで薪を切りそろえている音だ。

銭湯の丸ノコはデカい。製材所でみるような直径五〇センチはある架(か)台(だい)付きの大きな丸型のノコギリだ。

 

釜にくべる薪を毎日、空気をも切り裂くような大音響を轟かせながら切りそろえていた。角材が山のように積み上げられていく。

毎日、解体業者がもってくる家一軒分の角材をひとつひとつ手作業でオヤジが切りそろえていた。滴る汗、隆々と盛り上がる筋肉。焼けた肌。

俺が中学生のときのオヤジは赤銅色の鎧のような筋肉で覆われていた。そして天高くそびえる煙突からは白煙が青空に吸い込まれていた。

 

あの日、下校時、裏手の作業場から帰宅した俺と目が合った。

汗を滴らせながら、いつもの口癖がでる。

 

「こら! 太郎、手伝え」

 

オヤジには逆らえない。

街で怖いもの知らずの俺もオヤジだけは怖かった。

だが近寄ってきたとおもったら頭をおもいっきり叩かれた。

 

「馬鹿野郎!生意気に原チャリなんかのりまわしてんじゃねえ!」

 

オヤジは気がついていた。

 

「いいか!自分のケツは自分でふけ!わかったか!」

 

そして更に顔を近づけて言った。

 

「もし、それで人なんてひいちまったら腹を切って死ぬことになるんだぞ!」

 

このまま、二、三発ぶん殴られる勢いだった。

だが一瞬、不思議そうな顔をした。

 

「ん。なんか顔がはれてるな?またケンカか」

 

怒った顔が一瞬垣間見せるように、目が笑った。

 

「ああ」

 

俺も言葉使いだけはどこか反抗的だった。

オヤジは堪えきれずに喉チンコが見えるような大口を開いて大声で笑いだした。

 

「がっはっは!その顔は負けたのか?」

 

「負けてねえよ!」

 

「そうだろうな。負けんじゃねえよ」

 

その言葉を拾うようにそしてたたみかけるように言った。

顔は真顔にもどっていた。むしろ目つきが鋭くなっていた。

 

オヤジは負けず嫌いだった。俺に強さを求めていたのを知っていた。

そして正しさを求めていた。どこかでオヤジは自分より強い人間に育てようとしていた。そんな強いオヤジでも銭湯が斜陽の時代、あらゆる銭湯を淘汰する流れにはなかなか勝てずにいた。

 

けっして強いだけの男はいない、けっして弱いだけの男もいない。

オヤジは俺に男の弱さ、人間の強さをこれからまざまざと見せつけてくれることになる。

 

鼻腔に残る固まった鼻血やすこし腫れぼったい眼(ま)瞼(ぶた)の熱さを感じながら、オヤジを見ていた。

脳裏になにか掠(かす)めたのか普段の穏やかな表情になった。

どことなく目の奥に慈愛を感じてしまう視線をかわすように言った。

 

「オヤジ、丸ノコかわるぜ」

オヤジが俺の顔をまじまじ見た。

 

「珍しいな。今日は素直だな。どうした?」

夕日が赤味を増したようだ。

「いや、最近、遊んでばかりいたから、たまには手伝わねえと」

 

オヤジは、ふき出す汗を煤(すす)と飛び散った木屑(きくず)だらけのぶっとい二の腕で顔を拭った。

おもむろにポケットからセブンスターをとりだして紙巻きたばこを咥えると、

「そうか」

吐きだす紫煙と一緒につぶやくと、少し嬉しそうな顔を覗かせた気がした。だが、そのまま釜に薪をくべるために火袋の中に入っていった。

たばこを咥えたままの横顔がぼうっと爆ぜる炎に照らされていた。しばらく横目で様子を見ていたが、そのまま二階にあがっていった。

ふっと肩の力がぬけた。

「ああ、この程度ですんでよかった」

なんでこんなにオヤジは怖いんだろうと街で一番怖がられている俺はホッとした。

 

小脇に雑然と置いてある皮手袋をはめると、

腰を屈めて、駐車場の片隅に積み上げられた角材をひとつ持ち上げた。

 

オヤジがするように見よう見まねで俺も丸ノコを操る。

「チュイイーンン!!!」!「ビビビビーンン!!!」!

腕に振動が伝わってくる。

丸ノコの音が夕空に響いている。

だが、オヤジのように上手(うま)くは切れない。

角材も三寸角から六寸角と太さが違う、釘やガイシがついているのもある。

六寸角ともなるとかなり重い。

固い角材はたわんだ拍子にパワーのある動力の丸ノコさえも挟み込むように圧着して止まってしまうこともある。

丸ノコのパワーに角材がもっていかれそうだ。

力を入れ直して丸ノコの回転力が落ちないように角材を回しながら気を配りつつ切り揃えていく。日が落ちるまで切り続けようと思いつつ、

数時間前の出来事が切り刻む音とともに心に浮かんでくる。

林試の森でのタイマン勝負。

くたくたの俺をカツがどこかで拾ってきたボロボロのチャリンコに乗せた。

ニケツのまま、油の切れたチェーンは音を軋ませていた。ペダルを重そうに漕ぐカツに言った。

 

「もうケンカは卒業だ。なんだかスッキリしたぜ」

 

カツも殴り合ったのかリーゼントが乱れている。

 

「ああ、俺らももう高校だ。そろそろ卒業だな」

 

「ああ、楽しい中学生活だったな」

 

歩くよりも遅いニケツの俺たちの横をタカナミが歩速をあわせている。

目つきの鋭さはそのままに言った。

 

「ゼロ神はオオタが継ぐらしいぜ」

 

地元の暴走族だ。

日が傾きはじめた空を仰いで言った。

 

「興味ねえな」

 

自転車から降りて俺も歩きだした。

 

「そんなチャリンコ捨てとけよ」

 

俺は走りだした。

 

「喉がからからだぜ!吉仲パンで三ツ矢サイダー飲もうぜ」

 

「ああ、いいね!」

 

カツもタカナミも走りだした。

 

「でも五〇円しかないぜ」

 

俺らはいつも金欠だった。

 

「しょうがねえから三人で一本飲もうぜ!」

 

「俺が最初だ!」カツが言った。

 

「おまえの唾液が注入されちゃうじゃねえか!おれが最初だ!」

 

「おまえのゲップは長(なげ)えからダメだ!」タカナミが俺にむかって言った。

 

「おまえはイッキで半分いくからダメだ!俺が飲む!」

 

俺とカツが言った。

もうケンカの事なんて忘れているような三人だった。

 

「俺らにこわいものはねぇなー!」

そう怖いのはこの時代オヤジだけだった。

そのオヤジの心に暗雲が忍びこんでくるのも時間の問題だった。

 

潰す潰されるという中学時代は時の流れとともに終焉しようとしていた。

もう林試の森でケンカすることもないだろう。

 

「このままでは終わらない。ただ前に進むしかない」

ひとりごちるその言葉が角材を切り刻む音に消し飛んでいった。

 

そして良いも悪いもやるだけの事はやった充実感とともに、

 

西の空にはなにもわからない馬鹿にも公平に降りそそぐ、真っ赤に輝く温かな夕焼けが横顔を照らしていた。

第三章 『家族だんらん』につづく。

若旦那太郎

小説 俺の銭湯 第一章 『悪たれの街』(武蔵小山温泉Webパブリッシング)


―――小説 俺の銭湯―――

 

『悪たれの街』

 

日が天に蓮なるように。

月や潮が満ち欠けるように。

星が闇夜に散りばめられるように。

幾星霜の天地がそして星々が銭湯の栄枯盛衰を見てきただろうか。

 

武蔵小山の空は今日も輝いている。

その空に湯煙が舞い踊っている。腰屋根の明かり窓からは燦然と輝く温かな光が隅々までをも照らしだし湯舟を煌めかせている。 目を見開いてただ前を見続けることしかできなかった。

だがふっと天を仰げば何か気がついたかもしれない。

その光は何かを語っている。

 

 

「勇気をだせ」

前に進む、その姿を見続けていることを、そしてその努力に必ず報いることに約束していることを。

銭湯の系譜。

 

時には泣き、時には笑い、そして哀しみ喜ぶその姿を。親から子へ、子から孫へ、子子孫孫と輪廻のように繰り返しながら庶民(しょみん)のなかで奥歯を食いしばって生きてきた。

俺の頭上にも輝く銭湯の一筋の光が射しこんでいた。

だがそんな温かな銭湯の煌めきとは逆行する少年時代だった。

 

きっと忘れかけていたのは俺自身だったのだろう。

中学生の俺は忘れかけの思い出を必死に探していた。

この光の温かさと懐かしさを。

遠い昔、忘れかけていた思い出が蘇ってくる。あの優しさに満ち溢れた情景を。

それは、中学三年の夏の終わり一番派手なケンカの後、少しだけ思いだした。

 

 

埃(ほこり)っぽい暗い空間に投影光が波打っている。

バラ座のいつもの片隅の席。

出入り口から近い場所に俺たちは座っていた。

 

エバラ座映画館。略して「バラ座」

武蔵小山唯一のピンク専門の成人映画館がかつてあった。

金曜の夜に始まるレイトショーは安っぽい団地もののロマンポルノばかりだった。

 

扇形に配置された擦り切れて脂(あぶら)焼けしたエンジ色の座席には汚らしい常連ほど奥の席を等間隔に陣取っていた。

ヤニ臭い冷房がゆるく効いている。

音質の悪いモノラルのセンタースピーカーからはねっとりとした劇中の会話が流れていた。

退屈な序盤のストーリー展開から中盤のロマンポルノ特有のピークにさしかかっていた、雑音とまじって桃色の吐息がやけに大音量で聞こえる。

 

鼻くそをほじりながら見ていた俺に「カツ」が後ろの座席から上半身を乗りだして耳打ちしてきた。

柳屋のポマードが鼻につく。

 

「太郎。来週の月曜日、日比野中学と三対三でタイマン勝負することになったぜ」

耳打ちする意味のない大きな声だった。

近くの席から舌打ちが聞こえてきた。

鼻くそを丸めていた手が一瞬とまった。

「マジか。ついにやるか!」

スクリーンの絡み合う残像が目の端に映っている。

俺の前にいた三白眼気味の「タカナミ」が座席越しにふり向いた。

「俺がサトルをボコボコにするから、太郎はオオタをやっちまえ」

薄暗い座席で不気味に目の光が浮いている。

少しはなれた席から迷惑そうに一段大きな咳ばらいが聞こえた。

俺は何も言わずに頷いた。

ロマンポルノはクライマックスに突入していた。

 

日比野中の番を張っているのはオオタだった。

荏原第一中学。略してバライチ。

創立から三五年目のバライチの番長は俺だった。

代々、武蔵小山で一番ワルい奴が受け継いできた。

 

中原街道を挟(はさ)んだところにある日比野中学。

噂では一つダブりの実質一つ年上のオオタが日比野中学を牛耳っていた。

中一の頃、ネリカンからそのままネンショーに入ったらしい。

何をやらかしたのかはいまだに謎だが。

その中原街道を挟んで小競り合いの絶えない日々がつづいていた。

いつか雌雄(しゆう)を決する時が迫っていた。

つまりどっちがケンカが強いか。それを決める日が近づいていた。

ふっとスクリーンの横にある大きな壁掛け時計を見た。

深夜零時を指していた。

「おおっともう時間だ!風呂掃除あるから帰るわ」

無遠慮に大きな声でいうと、そこかしこから咳ばらいとがなり声が聞こえた。

「クソガキ」

「ばかやろう」

「ガキはとっとと帰れ」

俺は跳ね上げ式の座席シートからゆっくり立ちあがると、くたびれた座面にまとわりついた夏用のドカンを手で払った。股間がもりあがっている。

徐(おもむろ)に奥の座席を振り返った。

「うるせえ!センズリじじいどもが!」

誰一人声を発する者はいなかった。ただエロ劇場のねっとりした空気だけが横たわっていた。

微かにカラカラと投影機のフィルムがまわる音が聞こえる。

無頓着にスクリーンを食い入るカツとタカナミにむかって言った。

「あばよ」

二人は視線はそのままに「ニッ」と笑った。俺は席を離れた。

座席と同じエンジ色の綿入れの布を貼りつけたすこしたてつけの悪いスイングドアを開いて出口に向かうと、

チケットカウンターには眠そうなおばちゃんがぽつねんと座っていた。

両手をポケットにつっこんだまま、声を掛けた。

「帰るね。まだカツ達はいるけど…」

どことなく眠そうにしていたがぼそっと口をひらいた。

「ああ、いいよ。また遊びにきな。でもあんた、夜遊びばかりしてるけど家の手伝いはするから偉いわね」

「っはは」

つい笑ってしまった。放任主義のオヤジとオフクロだが風呂の掃除をしないと飯を食わせてもらえなかった。

深夜零時になると必ず帰るのは銭湯の仕舞い掃除だと知っている。

当時、中学三年。

武蔵小山の街では誰も近づかない札付きの不良(ワル)だ。

「褒めてんのか貶してんのか。でも、おばちゃんいつもありがとね!おやすみ」

情には敏感な年頃だった。

どこか人生の艱難(かんなん)辛苦(しんく)を経てきたような優しいとも厳しいとも言えない笑顔をくれた。

バラ座のエントランスの隣りに夜遅くまでやっていた甘栗屋があった。甘栗好きな俺が番台の釣り銭をくすねて買にいくうちに仲良くなった。おばちゃん同士も仲が良かったのがきっかけでたまにピンク映画の無銭鑑賞にあずかっていた。

一時代、昔の武蔵小山はどこか戦後の昭和の空気感がまだ人情味とともに微かに残っていたような気がする。

肩をいからせたまま左に曲がった。残暑が残るねっとりとした風が頬を撫でた。

しばらく歩くと荏原三丁目公園がある。朽ちかけているたこ焼き屋の屋台のその物陰に不自然にカウルが外れかかった白い原動機付きバイクが隠してあった。直結してあるから簡単にエンジンがかる。

俺はおもむろにその白い「パッソル」にまたがった。

宵越しの空に白い月が浮かんでいる。

その夜空に原付バイクの直管マフラーのすこしふかし気味の排気音が響き渡った。

 

 

三日後、武蔵小山の

空を見上げると青い空に雲が千切れるように浮かんでいた。

 

鉄柵の向こう側。

幾筋の日射しが降りそそいでいた。葉(は)叢(むら)のそよめきがずっと聞こえていた。風に舞う枝葉が不規則な音律を奏でていた。頬をなでる優しげだがねっとりした微風はどこか無関心をよそおっていた。夏を思わす大空にむかって大の字になっていた。

 

「あたたかいな」

なにか夢のようなものを見ていた。それがとても心地よかった。

その刹那、そよぐ草いきれの匂いとまじって鼻腔からしたたり喉元に落ちてくる生温かい粘液は血の味がした。

そうだ朧(おぼろ)だがどこか温かな夢を見ていた。

優しげな日射しが降りそそぐ風呂場のタイルの上。

なぜだかオヤジと一緒にいる。不思議な温かさを感じていた。

すでに記憶の欠片が砕け散っていたと思っていた。

でもあの時の記憶はどこか心の奥底に大切に仕舞いこんでいたことに気がついた。

「なんでだろう。何で子供の頃を思いだしたんだろう」

銭湯の息子に生まれた。

いつも、バカにされていた。

「お前の銭湯はだれもいねえな」

悔しかった。

オヤジが馬鹿にされていると思った。

「負けたくねえ」

子供心に舐めらたくなかった。

いつしか武蔵小山では知らない者がいないほどの悪たれ坊主になっていた。

 

その少し前、

学校を抜け出して、親友会通りを仲間と駆けていた。

よくあることだった。気にする先生や生徒は誰もいない。

「ぶっ潰すぜ!林試まで競争だ!」

俺を含めて三人。

俺とカツとタカナミ。

いつもこの三人だった。

「もうすぐ俺らの天下だな」

天に届くようなバカ笑いをしながら武蔵小山を縦断(じゅうだん)するように街を走り抜けていく俺たちがいた。

 

俺たちが向かっていたのは現在の林試の森公園だった。

武蔵小山には当時から大きな森があった。それが姿を変える前の農林水産省管轄の林業試験場だった。

古びた鉄策を乗り越えた。止まりはしない。そのまま駆けていく。

太古を思わせる緑林の静寂の中。敷地の中央には日当たりのいい大きな一本道があった。

アスファルトが所々めくれて生命力のある背丈の高い雑草が顔をだし無法図(むほうず)に伸びていた。

自然と立ち止まった。

俺たちの足元には大樹の木漏れ日がざわめいていた。

目の前には瞬きせずに睨みを据えている漆黒の長ランを背負ったオオタがいた。

「暑くねえのか馬鹿野郎」

一声咆えた。

 

視線がぶつかり。お互いの瞳孔が閉じ視界が狭く感じた。

ゆっくりと長ランを肩から外すのが見えた。

ぶっといドカンを締めている白いベルトが鮮やかだった。そして側頭の血管が太くなっているのに気がついた時、オオタが吠えた。

「殺すぞ。こらあ」

深沈とした森に響いた。

 

間髪入れず野太い俺の声が響いた。

「おー!タイマン勝負だクソガキ」

「上等だ。クソガキ!」

刹那、瞳孔が開いたのか日射しが眩しく感じた。

羽音が聞こえた。飛びたったカラスが鴇(とき)の声を告げるように鳴いた。

 

生い茂る葉叢のざわめきの音とともに、

鈍い打音だけが聞こえてくる。

殴り合う音と音だった。寂(じゃく)とした森に響いていた。絡み合う二つの影。

肉が波打ち、骨と骨がぶつかり合う鈍くて湿った音が続いている。

血がしたたり落ちる。

どこまでも二つの拳と二つの拳だけでどつき合いを続けていた。

品川で一番強いといわれていた日比野中学の番長とのタイマン勝負。

言葉はどこにも無い。

赤黒く腫れた顔に見開いた目だけが爛々と光っていた。

 

「強えぇ」

正直に思った。声にはださない。

少しでも弱音を見せたら一気呵成に畳み込まれる。

だが相手も同じだった。

まるで鏡に映った自分自身と戦っているような錯覚にお互いが陥っていった。

いつまでも続く終わりの見えない殴り合い。殴り殴られ、ただ気力だけで立ち続けていた。

街では怖いもの知らずだった。天狗になりかけていた俺の鼻っ柱からも血(ち)飛沫(しぶき)が地を染めている。

 

握りしめた拳に力が入らなくなってきた。強烈な痛さは次第に無痛にかわり、そのうち無音の中で打ちのめされる打音だけが体に響いていた。そしてもともと空っぽの頭から意識が遠のいてきた。だが、同時に、不思議とその空っぽだったはずの頭の芯から、なぜかジンジンと熱いものがかま首をもたげかけてきた。

 

「負けたくねえ」

一歩踏み出した。

 

相手も気力をふり絞るのがわかった。

ついに終焉を迎えた。

 

鈍い音が森に響いた。

その瞬間、二つの影は地に吸い込まれるように倒れていった。

 

胸ぐらを掴(つか)みあったままお互いが最後の気力と気力をぶつけるように同時に頭突きをした。

相手の鈍い目の光だけが残(ざん)心(しん)として覚えている。それが記憶の最後だった。

「ケンカ」

それ以外あまり思い出の無い中学時代は終わろうとしていた。

 

第二章 『淘汰の波』につづく。

著者 若旦那太郎