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小説 俺の銭湯 第一章 『悪たれの街』(武蔵小山温泉Webパブリッシング)


―――小説 俺の銭湯―――

 

『悪たれの街』

 

日が天に蓮なるように。

月や潮が満ち欠けるように。

星が闇夜に散りばめられるように。

幾星霜の天地がそして星々が銭湯の栄枯盛衰を見てきただろうか。

 

武蔵小山の空は今日も輝いている。

その空に湯煙が舞い踊っている。腰屋根の明かり窓からは燦然と輝く温かな光が隅々までをも照らしだし湯舟を煌めかせている。 目を見開いてただ前を見続けることしかできなかった。

だがふっと天を仰げば何か気がついたかもしれない。

その光は何かを語っている。

 

 

「勇気をだせ」

前に進む、その姿を見続けていることを、そしてその努力に必ず報いることに約束していることを。

銭湯の系譜。

 

時には泣き、時には笑い、そして哀しみ喜ぶその姿を。親から子へ、子から孫へ、子子孫孫と輪廻のように繰り返しながら庶民(しょみん)のなかで奥歯を食いしばって生きてきた。

俺の頭上にも輝く銭湯の一筋の光が射しこんでいた。

だがそんな温かな銭湯の煌めきとは逆行する少年時代だった。

 

きっと忘れかけていたのは俺自身だったのだろう。

中学生の俺は忘れかけの思い出を必死に探していた。

この光の温かさと懐かしさを。

遠い昔、忘れかけていた思い出が蘇ってくる。あの優しさに満ち溢れた情景を。

それは、中学三年の夏の終わり一番派手なケンカの後、少しだけ思いだした。

 

 

埃(ほこり)っぽい暗い空間に投影光が波打っている。

バラ座のいつもの片隅の席。

出入り口から近い場所に俺たちは座っていた。

 

エバラ座映画館。略して「バラ座」

武蔵小山唯一のピンク専門の成人映画館がかつてあった。

金曜の夜に始まるレイトショーは安っぽい団地もののロマンポルノばかりだった。

 

扇形に配置された擦り切れて脂(あぶら)焼けしたエンジ色の座席には汚らしい常連ほど奥の席を等間隔に陣取っていた。

ヤニ臭い冷房がゆるく効いている。

音質の悪いモノラルのセンタースピーカーからはねっとりとした劇中の会話が流れていた。

退屈な序盤のストーリー展開から中盤のロマンポルノ特有のピークにさしかかっていた、雑音とまじって桃色の吐息がやけに大音量で聞こえる。

 

鼻くそをほじりながら見ていた俺に「カツ」が後ろの座席から上半身を乗りだして耳打ちしてきた。

柳屋のポマードが鼻につく。

 

「太郎。来週の月曜日、日比野中学と三対三でタイマン勝負することになったぜ」

耳打ちする意味のない大きな声だった。

近くの席から舌打ちが聞こえてきた。

鼻くそを丸めていた手が一瞬とまった。

「マジか。ついにやるか!」

スクリーンの絡み合う残像が目の端に映っている。

俺の前にいた三白眼気味の「タカナミ」が座席越しにふり向いた。

「俺がサトルをボコボコにするから、太郎はオオタをやっちまえ」

薄暗い座席で不気味に目の光が浮いている。

少しはなれた席から迷惑そうに一段大きな咳ばらいが聞こえた。

俺は何も言わずに頷いた。

ロマンポルノはクライマックスに突入していた。

 

日比野中の番を張っているのはオオタだった。

荏原第一中学。略してバライチ。

創立から三五年目のバライチの番長は俺だった。

代々、武蔵小山で一番ワルい奴が受け継いできた。

 

中原街道を挟(はさ)んだところにある日比野中学。

噂では一つダブりの実質一つ年上のオオタが日比野中学を牛耳っていた。

中一の頃、ネリカンからそのままネンショーに入ったらしい。

何をやらかしたのかはいまだに謎だが。

その中原街道を挟んで小競り合いの絶えない日々がつづいていた。

いつか雌雄(しゆう)を決する時が迫っていた。

つまりどっちがケンカが強いか。それを決める日が近づいていた。

ふっとスクリーンの横にある大きな壁掛け時計を見た。

深夜零時を指していた。

「おおっともう時間だ!風呂掃除あるから帰るわ」

無遠慮に大きな声でいうと、そこかしこから咳ばらいとがなり声が聞こえた。

「クソガキ」

「ばかやろう」

「ガキはとっとと帰れ」

俺は跳ね上げ式の座席シートからゆっくり立ちあがると、くたびれた座面にまとわりついた夏用のドカンを手で払った。股間がもりあがっている。

徐(おもむろ)に奥の座席を振り返った。

「うるせえ!センズリじじいどもが!」

誰一人声を発する者はいなかった。ただエロ劇場のねっとりした空気だけが横たわっていた。

微かにカラカラと投影機のフィルムがまわる音が聞こえる。

無頓着にスクリーンを食い入るカツとタカナミにむかって言った。

「あばよ」

二人は視線はそのままに「ニッ」と笑った。俺は席を離れた。

座席と同じエンジ色の綿入れの布を貼りつけたすこしたてつけの悪いスイングドアを開いて出口に向かうと、

チケットカウンターには眠そうなおばちゃんがぽつねんと座っていた。

両手をポケットにつっこんだまま、声を掛けた。

「帰るね。まだカツ達はいるけど…」

どことなく眠そうにしていたがぼそっと口をひらいた。

「ああ、いいよ。また遊びにきな。でもあんた、夜遊びばかりしてるけど家の手伝いはするから偉いわね」

「っはは」

つい笑ってしまった。放任主義のオヤジとオフクロだが風呂の掃除をしないと飯を食わせてもらえなかった。

深夜零時になると必ず帰るのは銭湯の仕舞い掃除だと知っている。

当時、中学三年。

武蔵小山の街では誰も近づかない札付きの不良(ワル)だ。

「褒めてんのか貶してんのか。でも、おばちゃんいつもありがとね!おやすみ」

情には敏感な年頃だった。

どこか人生の艱難(かんなん)辛苦(しんく)を経てきたような優しいとも厳しいとも言えない笑顔をくれた。

バラ座のエントランスの隣りに夜遅くまでやっていた甘栗屋があった。甘栗好きな俺が番台の釣り銭をくすねて買にいくうちに仲良くなった。おばちゃん同士も仲が良かったのがきっかけでたまにピンク映画の無銭鑑賞にあずかっていた。

一時代、昔の武蔵小山はどこか戦後の昭和の空気感がまだ人情味とともに微かに残っていたような気がする。

肩をいからせたまま左に曲がった。残暑が残るねっとりとした風が頬を撫でた。

しばらく歩くと荏原三丁目公園がある。朽ちかけているたこ焼き屋の屋台のその物陰に不自然にカウルが外れかかった白い原動機付きバイクが隠してあった。直結してあるから簡単にエンジンがかる。

俺はおもむろにその白い「パッソル」にまたがった。

宵越しの空に白い月が浮かんでいる。

その夜空に原付バイクの直管マフラーのすこしふかし気味の排気音が響き渡った。

 

 

三日後、武蔵小山の

空を見上げると青い空に雲が千切れるように浮かんでいた。

 

鉄柵の向こう側。

幾筋の日射しが降りそそいでいた。葉(は)叢(むら)のそよめきがずっと聞こえていた。風に舞う枝葉が不規則な音律を奏でていた。頬をなでる優しげだがねっとりした微風はどこか無関心をよそおっていた。夏を思わす大空にむかって大の字になっていた。

 

「あたたかいな」

なにか夢のようなものを見ていた。それがとても心地よかった。

その刹那、そよぐ草いきれの匂いとまじって鼻腔からしたたり喉元に落ちてくる生温かい粘液は血の味がした。

そうだ朧(おぼろ)だがどこか温かな夢を見ていた。

優しげな日射しが降りそそぐ風呂場のタイルの上。

なぜだかオヤジと一緒にいる。不思議な温かさを感じていた。

すでに記憶の欠片が砕け散っていたと思っていた。

でもあの時の記憶はどこか心の奥底に大切に仕舞いこんでいたことに気がついた。

「なんでだろう。何で子供の頃を思いだしたんだろう」

銭湯の息子に生まれた。

いつも、バカにされていた。

「お前の銭湯はだれもいねえな」

悔しかった。

オヤジが馬鹿にされていると思った。

「負けたくねえ」

子供心に舐めらたくなかった。

いつしか武蔵小山では知らない者がいないほどの悪たれ坊主になっていた。

 

その少し前、

学校を抜け出して、親友会通りを仲間と駆けていた。

よくあることだった。気にする先生や生徒は誰もいない。

「ぶっ潰すぜ!林試まで競争だ!」

俺を含めて三人。

俺とカツとタカナミ。

いつもこの三人だった。

「もうすぐ俺らの天下だな」

天に届くようなバカ笑いをしながら武蔵小山を縦断(じゅうだん)するように街を走り抜けていく俺たちがいた。

 

俺たちが向かっていたのは現在の林試の森公園だった。

武蔵小山には当時から大きな森があった。それが姿を変える前の農林水産省管轄の林業試験場だった。

古びた鉄策を乗り越えた。止まりはしない。そのまま駆けていく。

太古を思わせる緑林の静寂の中。敷地の中央には日当たりのいい大きな一本道があった。

アスファルトが所々めくれて生命力のある背丈の高い雑草が顔をだし無法図(むほうず)に伸びていた。

自然と立ち止まった。

俺たちの足元には大樹の木漏れ日がざわめいていた。

目の前には瞬きせずに睨みを据えている漆黒の長ランを背負ったオオタがいた。

「暑くねえのか馬鹿野郎」

一声咆えた。

 

視線がぶつかり。お互いの瞳孔が閉じ視界が狭く感じた。

ゆっくりと長ランを肩から外すのが見えた。

ぶっといドカンを締めている白いベルトが鮮やかだった。そして側頭の血管が太くなっているのに気がついた時、オオタが吠えた。

「殺すぞ。こらあ」

深沈とした森に響いた。

 

間髪入れず野太い俺の声が響いた。

「おー!タイマン勝負だクソガキ」

「上等だ。クソガキ!」

刹那、瞳孔が開いたのか日射しが眩しく感じた。

羽音が聞こえた。飛びたったカラスが鴇(とき)の声を告げるように鳴いた。

 

生い茂る葉叢のざわめきの音とともに、

鈍い打音だけが聞こえてくる。

殴り合う音と音だった。寂(じゃく)とした森に響いていた。絡み合う二つの影。

肉が波打ち、骨と骨がぶつかり合う鈍くて湿った音が続いている。

血がしたたり落ちる。

どこまでも二つの拳と二つの拳だけでどつき合いを続けていた。

品川で一番強いといわれていた日比野中学の番長とのタイマン勝負。

言葉はどこにも無い。

赤黒く腫れた顔に見開いた目だけが爛々と光っていた。

 

「強えぇ」

正直に思った。声にはださない。

少しでも弱音を見せたら一気呵成に畳み込まれる。

だが相手も同じだった。

まるで鏡に映った自分自身と戦っているような錯覚にお互いが陥っていった。

いつまでも続く終わりの見えない殴り合い。殴り殴られ、ただ気力だけで立ち続けていた。

街では怖いもの知らずだった。天狗になりかけていた俺の鼻っ柱からも血(ち)飛沫(しぶき)が地を染めている。

 

握りしめた拳に力が入らなくなってきた。強烈な痛さは次第に無痛にかわり、そのうち無音の中で打ちのめされる打音だけが体に響いていた。そしてもともと空っぽの頭から意識が遠のいてきた。だが、同時に、不思議とその空っぽだったはずの頭の芯から、なぜかジンジンと熱いものがかま首をもたげかけてきた。

 

「負けたくねえ」

一歩踏み出した。

 

相手も気力をふり絞るのがわかった。

ついに終焉を迎えた。

 

鈍い音が森に響いた。

その瞬間、二つの影は地に吸い込まれるように倒れていった。

 

胸ぐらを掴(つか)みあったままお互いが最後の気力と気力をぶつけるように同時に頭突きをした。

相手の鈍い目の光だけが残(ざん)心(しん)として覚えている。それが記憶の最後だった。

「ケンカ」

それ以外あまり思い出の無い中学時代は終わろうとしていた。

 

第二章 『淘汰の波』につづく。

著者 若旦那太郎